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「社会学入門」期末レポート2011-4

「なぜいじめが起きるのか―こどもの社会とおとなの社会を比較して―」

川又彩

 


 

1. はじめに

 いじめ―それは私にとって小学校・中学校ととても身近なものであったにも関わらず、今になっても不思議なものである。何かしらの理由をつけて、常に誰かがいじめられている。昨日まではいじめる側だった子が、今日からはいじめられる側になっている。そんなことがよくあった。しかし、高校に入った途端、いじめなんて誰もしなくなっていた。大学生になった今もいじめなんてない。これは年齢のせいなのだろうか。みんなおとなになったから、「いじめなんてしない」と思うようになったのだろうか。それは違うだろう。なぜなら、おとなの社会にも「いじめ」は確かに存在するからである。それは例えば会社内でのいじめであったり、姑の嫁いびりであったりする。

 ではなぜ高校・大学でいじめがなくなったのだろうか。小・中学校での「こどものいじめ」と、会社や家庭内での「おとなのいじめ」は、本質的に異なるものなのだろうか。異なるのであれば、何がどのように異なるのだろうか。今回のレポートでは、こどもとおとなそれぞれのいじめについて考え、相違点または共通点を考察したうえで、学校でいじめが起きる原因とその解決法を考える。ただし今回、「こども」は学校に通っている人(小・中学校、高校、大学まで含む)、「おとな」は社会人として生活している人と定義する。

 

2. 本論

〈こどものいじめ、おとなのいじめ〉

こどものいじめが起きる場所として代表的なものは学校である。内藤朝雄氏の著書「いじめの社会理論 その生態学的秩序の生成と解体」において、日本の学校は「学校共同体型の極端に突出したタイプ」とされている。内藤氏は、学校共同体型の弊害について、次のように述べている。

 「ムカツクとかキレルといった表現には、子宮の中で胎児がただれてしまってどうしようもないといったニュアンスがある。(中略)こうした『荒れ』というよりも『ただれ』といった方がよい気分は、共同体を無理強いされた者たちのあいだで蔓延する。なぜ一緒にいなければならないのかわからない者たちと、心理的な距離をちぢめさせられ、共に響き合う身振りを毎日やらされていると、こういう未分化な憎悪が蔓延する。共同体型の学校では、ネズミや鳩を檻の中でむりやりベタベタさせると通常では考えられないような攻撃性が生じるという、あの過密飼育実験を、わざわざ税金をドブに捨てながらやっているようなものである。」(31ページ1018行目)

 たしかに、いじめが頻発していた小学生・中学生のときには、それまで何の接点もなかったとしても、「同じクラス」になった途端その人たちとは「友達」であるとされ、1年間(クラス替えがなければ数年間)四六時中同じ教室で「仲良く」「協力して」一緒に過ごすのが当たり前とされていた。このように、たいして信頼関係も築けていない人たちと、狭い教室のなかで1日中密着し合っていることによって、本人たちも気付かないうちに何らかのストレスが発生し、そのはけ口として「いじめ」が起きると考えられる。すると、高校や大学でいじめがなかったことも説明できる。なぜなら、私の通っていた高校は比較的自由な校風であり、同じクラスであっても授業によってバラバラになったり、ほかのクラスの人が混じったりと、「一つの教室に押し込められる」という環境ではなかったと考えられるからである。大学においてはその自由度はより高いものになっている。以上より、「こどもの社会」においていじめが起きる根本的な原因として「個人と個人との間の信頼関係がないにもかかわらず、濃密に密着し合っている」(44ページ18行目)ことを挙げるのは妥当であると考える。

 一方、おとなのいじめの原因を考えた場合にも、こどもの場合と同様に、一か所に押し込められることによるストレスが考えられる。会社内であれば、一つの部署などによく知りもしない人同士が配置されており、家庭内であれば、それまであまり接点のなかった嫁と姑があるときから同じ家で生活をするようになる。どちらの場合であっても、信頼関係は初めから築けているわけではないため、摩擦が生じる可能性は十分にあると考えられ、それによるストレスがいじめとなると予想される。

 こどもよりも人生経験や知識がある分、おとなの方が陰湿ないじめを思いつき、実行できるのではないか、こどもはおとなの行動を見て真似しているだけなのではないか、と私は考えていた。しかし、調査してみると、こどものいじめは想像するよりもはるかに陰湿かつ巧妙であることが分かった。山脇由貴子氏著「教室の悪魔 見えない『いじめ』を解決するために」で示されている例としては次のようなものがある。

 

@メールで噂話・誹謗中傷をばらまく(「内容は、仮に真実であったとしても本人は必ず否定するはずの話題」であるため、「本人がどんなに否定しても相手にされない」。また、加害者が特定できない)

A共犯関係を演出し金銭要求する(「ただお金を要求して取り上げるだけ」ではなく、「実際に一緒にゲームセンターに行くことで、周囲の大人からは『一緒に遊んでいる』と見えてしまう」。「被害者自身も一緒に遊んでいる、と言われれば否定しきれない」。)

B発覚しない小さな暴力を繰り返す(「加害者達はあたかも『気を使っている』かのように被害者をいじめる。服に穴が開いたりしないように、大きな怪我をしないように、ちゃんと加減してやってるんだぞ、というメッセージを被害者に送る。実際に加減もする。(中略)そして被害者はそのことに感謝する。」)

 

 これらの例からわかるのは、こどものいじめは大人にばれないように巧妙に、被害者までも共犯者にして、誰にも被害を訴えられないようにしているということである。周りの大人の行動を真似しただけではできないことだろう。つまり、こどもだからいじめの手口が簡単で分かりやすい、というようなことは全くなく、経験や知識の量によっておとなとこどものいじめの性質を区別することはできないということである。

 以上より、おとなのいじめとこどものいじめは、本質的に異なるものではないと私は考える。いじめの性質という点では、年を取るごとにいじめが陰湿になるということはないし、いじめの原因としては、どちらも、互いに信頼関係のない個人の集団が密着して生活することを強制している、現在の学校や社会全体の制度が原因だと考えられるからである。年齢にかかわらず、赤の他人同士を狭い空間に押し込めてむりやり「仲良く」させようとすればストレスが生じ、そのストレスに対する反応は、成長する過程で身につくものではなく、人間に本来備わっているものであると私は考える。

〈いじめの解決策を考える〉

 これ以降は、学校でのいじめをなくすための方法について考察する。現在の日本の学校制度について、「いじめの社会理論」では次のように述べられている。

「学校空間は、社会通念という防御帯に守られている。学校共同体が『あたるまえ』になると、市民社会の論理によって学校内の暴力に対処することができなくなる。」(120ページ1行目)

「学校共同体主義はただ通念として社会にいきわたっているだけでなく、具体的な教育制度・教育政策に支えられて、特定年齢層のすべてを包括した中間集団全体主義として現実に存在している。」(121ページ14行目)

「朝から夕方まで過剰な接触状態で『ともに育つかかわりあい』を強制する学校では、心理的な距離の私的な距離の調節は実質的に禁止されている。」(130ページ18行目)

 内藤氏は、学校でのいじめをなくすための解決策として、短期的には学級制度、中長期的には「単一の学校に強制帰属させる制度」を廃止するべきだ、と述べている。私はこの意見におおむね賛成だ。しかし、「単一の学校に強制帰属させる制度」を廃止した場合、それは学校自体をなくしたことになってしまい、「学校でのいじめ」をなくすこととは違うのではないかと考えた。よって私は、いじめをなくすために必要なのは現在のような学級制度の廃止であり、単一の学校に帰属することは廃止しなくてよいと考える。私の考える「学級制度の廃止」とは、担任の教員は存在するが、所属するべきHRを持たないようにすることである。時間割は、大学のように各自(各家庭で相談して)決定する。その際、科目ごとに難易度を分けるなどの工夫をすれば、現在よりも一人一人のレベルにあった授業をすることも可能になると考えられる。現在の学級制度であればあたりまえのようにある遠足や運動会は、HR単位での開催はできなくなるが、こどもたち自身でグループを作れば開催できるし、それによって小さいうちから主体的に行動することができるようになるとも考えられる。

 また、学級制度の廃止だけでなく、学校内の問題に司法がより積極的に関わっていけるようにすることも重要だと考える。それによって、「こどもだからある程度何をしても大丈夫」とか、「学校の中でのことだからしかたない」といった甘えをなくし、いじめ、つまり身体的または精神的な暴力も犯罪だと明確に示すことができ、抑止力になると考えられるからである。

 

3. 結論

 こどもでも、おとなでも、いじめが発生するのには原因がある。「いじめの社会理論」を読んで、いじめをなくすためには「学校のねばりつく関係性の襞に対して(やろうと思えば)よそよそしく距離を置いて生きることもできる権利を保障するのが単純明快な正解である」(34ページ10行目)という内藤氏の考えにとても共感した。これは学校に限らず、社会全体でも言えることである。これを実現するためには、学校からHRをなくし、「クラスメイト」をなくすことで、生徒が自分の居場所を自分で選べるようにすることが必要であると考える。他人に押し付けられる要素を極力なくして、幼いうちから個人の自主性を高めるような教育の在り方が、いじめをなくすことにもつながっていくのではないかと私は考えた。

 

 

4.参考文献

・「いじめの社会理論 その生態学的秩序の生成と解体」 内藤朝雄著

  柏書房 2001

・「教室の悪魔 見えない『いじめ』を解決するために」 山脇由貴子著

  ポプラ社 2006